ようこそ、じょんのび庵ZENへ。

古民家ぐらし4

狭山PA






2014年 9月


9月3日(水)天候は良くは無いが
悪くも無いので、新潟へ出発。

今回は圏央道の地図もナビに入っているので
上手く行けるはずだった。

実はトヨタのイシハラさんに新圏央道の地図を
ナビに入れてもらったのだが上手く入らず。


ダメかとあきらめ、家から走り出したその時、
ナビが突然に
「新しい地図でご案内します」とアナウンス!


「お~」と通行道路を走りながら
見てみると確かに入っているではないですか。

「ヨカッタ~」イシハラさんありがとう!

実は走るまではチャンと入っていなかったのに
奇跡が起こったようだ!

「ついてる」「ついてるぞ~」



車は新東名の「足柄サービスエリア」で止まり
休憩・朝食にします。

ヤケにここは車が多い。


車が多いので、止めるスペースも狭い。
戻ってくると、運転手が助手席側から
乗り込んでいる人が多い。


運転席側が隣りの車で塞がれていて
乗り込めないのだ。

次回はここでの休憩はスキップしたほうが
良さそうです。

団体のバスも多く、歩く距離も長い。
先月はたしか「鮎沢SA」だった。



さて、車は下り坂をスイスイ走り
いつの間にか厚木辺りに来ました。


圏央道へは「ナビ」が案内してくれるので
心配は無いがそれにしても
「やはり看板が見にくいね」


上下に看板並べられると
とても分かりにくい。


厚木ICを出て、「すぐ右側が圏央道なので
注意しないといけないポイントだね」


ナビのお蔭で
車はめでたく圏央道へと入った。

皆ビュンビュンとばしているが
「アッと言う間に渋滞」になった。

東名の上り線からの圏央道に
合流するのでここで止まってしまうのだろう。

やはりこんなトコにも落とし穴!


出口は更に渋滞がひどいはず。
前回、帰り道の圏央道出口(東名厚木JCTに乗る)時は
ひどい渋滞だった。


それもそのはず、2車線から1車線に
いきなりなるので、ココで渋滞30分以上。

こんなムチャクチャシステムなら
渋滞は当たり前!
ど素人の僕でも分かる。

システムが上手く機能していない。
渋滞解消には別べつに上り・下り用を
作らねばダメ!

良く考えられていないのだ。

「神奈川県道路公団さん!たのむで!」
「国土交通省!たのむで!」


期待していた圏央道だったが
関越道の鶴ガ島JCTまでが
大回りしている為か非常に距離がある。


これなら東名で東京ICまで行っても
時間的あまり変わらないかも知れない。

狭山PAのお店

それにトンネルが予想以上に多いのも
チョット引けちゃうね。


疲れたので圏央道・狭山PAで休憩にします。


ここでは「狭山茶きんつば」と
「狭山茶」を購入。


この辺からはトンネルは少なくて
景色も良くなりだした。


まもなく、鶴ガ島JCTで
ようやく関越道に乗った。

赤城高原SA

かなり長い距離走ったけど
ここまで来れば一安心といったところ。

あとは休みながら走り
湯沢ICで降りるつもり。

因みに前回は六日町ICまで行って降りたが・・




まず休んだ所は「赤城高原SA」。

ここからの景色は群馬の家々や
赤城山が一望出来る。

昼食用のパンを購入したり
アイスクリームも食べた。

以前、長野でも買った事があったが
「ももパン」が売られていたので
迷わず購入。

赤城高原SAからの風景



桃のジャムでも入っているのか
少し甘いけど、とても美味しい。


色も形も桃のように作られていて、
それにとても柔らかい。


季節限定商品なので
次回は無いかも知れません。


それと「カレーぱん」も購入。
ついでにメロンパンの
プレミアムも買ってしまった。

まあちゃんにブーブー言われそうだヨ。

美味しいももパン

未だお昼時間には早すぎるので
湯沢に行ってから食べようと思う。


時計を見たらまだ10時30分ごろだけど
パン屋さんに随分と人が集まっていた。

ももパンが人気なのかも?


他には珍しい色ガラス製品のお皿などが
売られていたのだが、家にあった捨てたものと
同じものが有ったので驚いてしまった。

パン屋さんの棚



「数千円もしているヨ」


「僕達はこれは卒業したね」などと、うそぶいて
ごまかしましたが・・


「実際のところ、いりませんからね」
「あっしにはかかわりのねェ事でござんす!」


このあと、林のところで少し休んだり
写真を撮ったりしてゆっくりしました。

何故かブタさんが・・




車は順調に走り、「湯沢IC」で降りて、
国道を走り「塩沢石打」の
道の駅「雪あかり」で昼食にすることに。



綺麗で広い休憩室には誰もいなかったが
中央扉を開けようと引っ張ったが開かない。

道の駅雪あかり

引いてダメなら押してみなット。

「ガッタン」

でも、開かなかったので仕方無く
喫煙室側から入った。

ここからの風景は山並が見えて、青い空!
最高!だね。


早速先ほど購入したパンをいただいた。
まずは、「ももパン」を食べ、カレーパン、
最後はメロンパン。

画像の説明



3つ食べたらお腹一杯になり
眠くなった。

先程入れなっかった扉から入ろうとする人が来た。


その人は、扉を横に引いて難なく入れたのには
正直驚いた。

急に眠気が引いて「シャキ~ン」


扉の取っ手がシステムと合っていないので
知らないとこうなるんだな~!

パンで昼食

「まいりました」

「扉をスライドすると開く事が分かるように
ガラスに矢印を付けておいて欲しかったね」


それにずっとBGM(女性の歌)が掛かっていて
それが見事に合ってない!

「僕にはただの雑音にしか聞こえない」

「うるさいね~」

雪あかり

この音がなければどんなに心が
落ち着くことか。


無料休憩室なのでありがたいし
文句いえないけど


サービスのつもりで、こんな要らない音楽
流しているなんて、もったいない。

「モーツァルトなんかがいいのにね~」

「無駄なことして、ひとりよがりじゃん」

「客の心を知ってほしいね」

「青い空、美しい山、風のささやきが
僕達のBGMだよ」

これで充分なんしょ!

休憩室を望む

「今度来た時は車で食事することに!」

買い物?

「やめときますわ」



ささ、気を取り直して出発進行!。



このあと、国道17号線を左に曲がり
大沢トンネルを通過。


そして十日町の「Hrashinスーパー」で買い物をして
13時には、めでたく「じょんのびアン」に到着!

じょんのび庵



天気も予報と違い晴れてくれて良かった。
一度、雨の中をずっと走り続けたことが
有ったけど、今日はついてる。



先月に続き雑草は伸びてはいたが
力強い雑草は無く簡単に取り除けて良かった。


近所のおばあちゃんによると
雨の翌日には草取りはやってはいけないらしい。


土が柔らかい状態なので
抜いた時に、土が一緒にくっついて来てしまい
土が減ってしまうそうです。


やはり乾燥してる時は土は硬いけど
根っこが綺麗に抜けるのは確かで
田舎の人はなんでも教えてくれるので助かります。

じょんのび畑



いつものように電気温水器のスイッチをONにして
使えるまではゆっくり昼寝でもして
休みます。


ここに来ると時間が止まってしまいます。
時計も止まっているので一応、動かしました。


翌日、早速、仕事を片付けます。



回路図

例の玄関前自動照明装置?を
進化させます。


夜遅く帰った時には自動消灯してるので
スイッチ一つでONにして点灯させます。


真っ暗闇で鍵穴も分からず
困ったことがありました。

swfu/d/IMG_4737.jpg

その他にも、お客さんが
家から遅く帰るときに消えていたりで
これを解消させます。


まず、図を書いて、部品を集め、
配線工事するだけです。


回路は簡単。


自動点灯回路をスイッチで切断して
LEDランプに強制的に100Vを送り込むだけ。

アルミダイキャスト

スイッチ1つでできるので
簡単に上手く出来ました。


タイマー収納に、プラBOXを使用していましたが
これを止めて、ステンレスの郵便箱をつかいます。


安く買えたのと、錆びないので
見た目も良いです。


スイッチは操作し易いように
別のアルミダイキャストBOXを購入しました。

タイマー収納ステンレスBOX



パンポットを作った時、初めて使いましたが
これがすこぶる良かったから、今回も使います。



何が良いのか?


じつは、ドリルで穴を開けた時、アルミと違い
全く「バリ」が出ないし、厚くて丈夫なのに
アルミより簡単に穴開け出来るので便利です。


アルミダイキャストは
角が丸いので見た目もカッコイイヨ。


郵便BOXは雪囲いの裏にドリルでビス固定しました。

完成

一応、完成し、
通常は自動点灯、自動消灯ですが

今度はスイッチでも、点灯させたい時には
何時でも可能になり、便利になりました。


問題点は配線処理が綺麗とは言えない所ですが、
ステンレスBOXの横に穴を開ければ


更に良くなりますが、今回のところは
これにて我慢して終了します。


時間があるときに、
BOXを加工して更に良くする予定です。

BOX内のタイマー

じわじわ行きますからネ。





今まで靜岡で使っていた丸くて白いテーブルが
部屋の整理で不要になってしまい


捨てるつもりだったけど
もったいない精神が出て、今回
新潟に持ち運んで来ました。

ビンテージの丸テーブル

なんと云ってもビンテージで
思い出も沢山あるテーブルなので
捨てられませんでした。


じょんのびの廊下に置いてみたら
意外に上の照明にも合い、


黄色の折りたたみイスにも合うので
ここで使うことにしました。


お昼ごはんを食べたあとは
十日町へ買い物をしてそのあとに

ホームセンター・ムサシ

久しぶりに「千年の湯」で
ゆっくり温泉に浸かり疲れを取りました。

正しくは「千寿温泉」というらしい

温泉から出たあとは必ずマッサージ機で
身体をほぐします。

200円で10分なので、2回はやらないと
ほぐれません。

機械も新しくなっていて
手や腕、足なども押さえてくれるので
良く効きます。

「キック~」 「イ・タタタタ」

そのあと、畳部屋でのんびりしましたが
お客は、あと1組しかいなくて驚ました。

何時もは30組以上はいるのに
時間が4時というのも関係あるかも?

それに今日は木曜日で出前が
ほとんどお休みの所が多かったので
お寿司とカツサンドを買い、帰りました。

居間の囲炉裏



ちなみに温泉で出前が出来るのは
ここだけらしいです。


今までは当たり前と思っていたけど
ココだけとは驚きでした。


先日、千寿温泉がテレビに出て
出前が出来る温泉ということで
「珍百景」に登録されたらしい。


夕方、家でも「缶ビール」と「枝豆」で
リラックスしタップリくつろぎました。

缶ビール専用機

いくら時間が経っても缶ビールが
冷たく飲めるのは専用のケースに
入れてるからです。


缶ビールが温められないので
何時までも美味しく飲めます。


「ヒンヤリ~」 「ウメ~~」

薄いステンレスが2重構造になっているとか。


こんなに効くとは思いませんでしたが、
わざわざ靜岡から持ってきて良かった。


因みに入れ物の下に「THERMOS」とあるので
有名なメーカーのようです。

swfu/d/IMG_4748.jpg


確か1000円ほどしたような気がしますが
使えば安いものと思います。

雑草も抜いたし、照明スイッチも付けたので
明日は急遽「村上」にいくことにしました。

iPhoneで検索してみたら
「瀬波温泉」という所が出てきたので
早速、電話してみました。

電話には、おじさんが出て、

居間より

1泊ひとり1万2000円というので
予約してしまいました。

値段からしても、極普通の旅館でしょう!

夕食を部屋ですると1000円高くなるとの事でしたが
自分の部屋に運んでもらいます。

なので1人1万3000円です。


旅館の場所は
村上のどの辺りかも分かりませんが
明日、電話番号をナビに入れてから出発します。

広間



明日は8時半頃には出発しようかと
思っているので今日は早めに寝ることにします。


と云うか、寝る時間が遅くならないように
しないといけません。


温泉に入ったので、家でのシャワーはお休み。


ほな!「おやすみ・・」




居間の囲炉裏の魚

村上へ


今日の天気は良好!

しかし、あすの天気予報では雨とかになっているが
その時はそれなりに動く予定とし
まずはナビに入れなければ!

とにかく8時30分出発進行!



村上へ行くなら、せっかくなので
新潟を通過しちゃうのは
もったいない気がしたので
新潟へも1ヶ所寄って行きます。


寺泊の海



村上は新潟から高速道で
30分程山形寄りで
県境に近いところです。


初めてなのでどうなのか分かりませんが
何でも鮭で知られている。


三面川(みおもてがわ)も
見てみたいし、とにかく行って見ることに。

寺泊沿岸道路

でも久しぶりに寺泊にナビをセットし
海岸通りも走ります。


土曜日なのに道路はガラガラだし
車はスイスイ走ります。

国道8号線から何処かで左に曲がれば
寺泊方向だけど早く曲がり過ぎると
時間が掛かる。

寺泊の海

国道8号ならほぼ高速道なみに
走れるのでギリチョンのところまで8号線で
行っておくんなまし。ナビさん!


ナビに指示されるとうりに
8号線を左に行くとすぐ海に出ました。


しばらく走ると砂浜で釣り人を発見!



車を止め、近づいてみたら
お姉さんだった。

何が釣れるか聞いてみると
意外にも黒鯛をルアーで狙っているという。

僕はてっきり白キスかと思っていたが
こんな砂浜から黒鯛とはコレ如何に!

イタリアンレストラン

もし釣れたらほんとに、凄いことだ。

少し小さめな緑色のミノー(魚型ルアー)が付いていた。


その向こうにはFLYを
投げている人がいたが、

行ってみたら、おじさんだったので
特に話しませんでした。



しばらく眺めて居たかったけど
時間は待ってくれないので
そうそうに後にしました。

シーサイドレストラン



さらに5分程走ると寺泊に到着。
未だ10時にもなっていない。

師匠に連れてきてもらったことがある
思いでの場所だが、今は海の家も閉ざされ


魚屋さんが幾つか開いているが、時間的に
お客さんはほとんどいなかった。


あの時は車がいっぱいで止めるのに
苦労したな~。


しばらくは師匠の
思い出に浸り、感傷気味です。

太古の湯

更に沿岸道路を走ってみました。


意外にもイタリアンのレストランが
3軒もあったり、温泉(太古の湯)が
あったりでここも少しずつ変わりつつある。



ナビをここでセットし直します。

次の目的地は新潟市の「北方文化博物館」。


全く場所は分かりませんが
道中ナビまかせで、ござんすよ。

画像の説明



あまり褒められることじゃ~
ござんせんが・・


しばらくはこのまま真っ直ぐと北方向へ
走ります。


この辺りは海沿いの道なので
比較的狭い道で、しかもカーブが多い。

稲穂

のんびり走る田舎の道は良いもんですな~。


左手には穂が実った収穫を待つ
稲穂が黄色く広がっていました。


その向こうには「松林」があり、
更に日本海が広がっている。



走る程に車は海へ近くなっていきました。

下の海へ釣り糸を垂らす釣り人

いつの間にやら車は
海の上の橋を渡っていて


橋の下へ釣り糸を垂らしている
太公望もいたりで
半分、山に押され気味でコワイです。


このまま新潟方向へ走っていけば
いずれ「村上」へと出るのですが
突然、車が右に曲がり街中への進路を変えました。

画像の説明

というのも、北方文化博物館へ
向かっているのですが
意外にも海と反対方向のようです。

それなりに車は走り、
街の真ん中へと入った。

やはり信号渋滞となり
ちっとも進まんではないですか?

まいります。

画像の説明

「こりゃマイッタね~」



前にもトラック、後ろにもトラックだけど
焦る様子は全くない。


大きなショッピングセンターを通過し
左へ大きくカーブを切ったその時
突然に「ここから無料OOバイパス」の看板。


別に曲がったわけでも無いのに
いきなりバイパス?

変わっとるバイね~


チョット、ビックラしたヨ。

バイパス

新潟?

すばらしい~ヨ!
街の真ん中、こんな素晴らしい道路あるなんて!


車はどんどんスピードが上り
ビュンビュンになったらいつの間にか
3車線じゃ~。


え~と、コンビニはどう見てもないけど、
大分、血糖値下がって震えキテルヨ。


「キテマス・キテマス」

博物館の駐車場

そういっても
コレ嬉しくないね。


とうとう北方文化博物館へ到着!





北方文化博物館(新潟市)



何か食べないとヤバイヨ!
震え来ちゃってるし、
まーちゃんは腹ペコでしゃべる気力も失せてる。


ブーたれているので喋らんでくんりょ!
こんな道でコンビニあるわけ無いしょ!

トイレ

取り敢えず、昼食は野菜だけじゃが
あるもん食べて良しとするべ。

駐車場には次々と他県ナンバーの車が
止まりだした。


富山県、福島県、石川、なんてのもあるじゃん。
ココそんな有名なとこかいな?


悪い予感がするね。

「ま~とにかく早く食べんと
死んじゃうよ~」



「ムシャムシャ」「よく噛んでと!」

北方文化博物館

トマト・アスパラ・ブロッコリー


野菜食べ終わったけど
何か食べた気しないね~

血糖値あがらんし~


主食じゃないけんね、
しょうがないバイね。


まずは目の前にあるトイレに入り
落ち着いて、焦らず・あせらず行かんばね!

入り口の看板

はよ~機嫌直しておくれ。
食べ物の恨みはホント怖い。


こんなに怖いとは知らんかったばいね。


ま~とにかく心の準備も出来たので
はよ入らんしょ!

周りの塀だけ見ても大きいのが分かる。

門柱

しばらく入り口に向かっていくと
大きな石の門柱があった。


墨で書いた大きな木の看板がある。


入り口を入ると綺麗に整備された
植木が入る人を迎えてくれる。


マイクロバスが止まっていて
団体客も多い。

邸内

話を聞いているとどうも
大阪からのお客さんのようだった。


ツアーで来ているので
中には興味なさそうな人もいたりで
色んな人が来ている。


「団体入り口はコチラ!」などの
看板も目に入る。


それにしても広大な敷地と住居が
別名、「豪農の館」と書かれている。

邸内へと進入

こういうのはよくあるパターンだけど
ここはスケールがかなり大きい。


ところで、ここは何なのか?


歴史を紐解くと、越後の蒲原平野をよぎる
2つの大きな川がある。


それが信濃川と阿賀野川。


その「阿賀野川」の西岸にある戸数3百戸あまりの
集落を「沢海」そうみ というそうだ。

巨大な囲炉裏

沢海の歴史は古く、江戸時代初期の
慶長15年(1610)より77年間は
沢海城という城があった。


11000石の小さな城下町として栄えていたという。


築城以前には囲いの堤防もなく、洪水の際には
水がたまり沢のようになり
「沢海」と名づけられたという。


その後、沢海は天領となり
代官所、旗本小浜の知行所が置かれていた。

太い梁群

明治2年、藩籍奉還となり、武家社会は終わりを告げた。


このような歴史の中、江戸時代中期、農より
身を起こし、やがて豪農への道を歩み
代を重ねて巨万の富を築いていった一族がある。


これが伊藤家である。


全盛期の明治40年頃には、4郡60数ヶ村に
田畑1370余町歩を有し、越後随一の

かまど

大地主として、その名は県下に鳴り響いていたが
戦後、農地開放により広大な田畑は
伊藤家の所有を離れた。


この伊藤家の屋敷と住居が、現在の
北方文化博物館で、別名「豪農の館」と呼ばれている。


今や、かつてのお城も、代官所、知行所陣屋の跡かたもない。


かつて伊藤邸だけが、昔の面影そのままに
数々の歴史を秘めて、のこるばかりである。

台所



そんな歴史ある敷地を歩いて行くと
右側に受け付けが有り、入場料を支払い
前に進むと右側にひっそりと佇む石仏がある。

五輪塔なども蓮台野より出土したもの。


この一角は、竹林とコケの緑、
時を経た石仏との調和が美しい。

石仏



鎌倉時代から室町時代前期のものと
推定される。


僕は石仏が好きだ。
実は、靜岡の庭に
江戸時代の石仏がある。


今の時代のものは全く別物だけど、
古い時代のものだから好きと言える。


なぜなら、昔のものは
優しさが滲み出ているからね。
部屋に置いときたいぐらいです。

画像の説明



さて、越後随一の豪農の建ものは
どうだろうか?


伊藤邸は、敷地8800坪、建坪1200坪
主屋の部屋数は65を数える純日本式住居。


敷地のまわりには土塁を築き、塀を建て、
濠をめぐらしてある。

大玄関

街道の門柱から広がる数十mの前庭、
土蔵造りの門、総けやき造り唐破風の大玄関などは

「豪農の館」と呼ぶにふさわしい豪壮さを備えている。


広大なこの邸宅は、伊藤家五代文吉により
明治15年から22年までの8年の歳月を
かけて造られたものである。


生活道具類

文吉は8年間の労苦と見事な出来栄えへの
感謝として、祝儀とは別に、田三反歩と
山林三反歩を贈ったと伝えられているそうだ。



この館では、5代、6代、7代の当主とその家族、
そして多くの使用人達が様々な暮らしを繰り広げて


行ったが7代当主の手によって、昭和21年
財団法人史蹟文化振興会が設立され、
その財産の全てが寄贈された。

部屋




そして今、煤で染まった梁や桁、黒光りする柱、
床板は当時の姿そのままに、豪農・伊藤家の
暮らしを今に伝えている。




茶壷の大小

館の全貌が少しづつ明らかになりつつあるが
では、邸内の暮らしはどうだったであろうか?

この大邸宅には、どれほどの人々が
暮らしを営んでいたのだろうか?


明治の半ばの頃の伊藤家には、番頭が3~4人、
家族直系の女中5人位、子供1人に乳母が一人づつ
中奥の女中5人位、お勝手にも5人位の女中、


畑で野菜をつくる作男6~7人位、そして
これらを統括する女中頭、台所番頭がいた。

廊長い廊下


又、3人ほどの大工と人足10人、さらに
石屋や鍛冶屋、瓦屋もいたという。


つまり、ここでは、家族の他に、60名近い
使用人が日々の暮らしを送っていたのである。




美しい庭園に面した南面の座敷は本棟に
遅れること5年、明治20年から22年にかけて
建てられた。

大広間と庭園



東側に大玄関があり、柱も天井も式台も戸も
全てけやき造りである。


特に、式台と戸は厚い一枚板で当時の建材に
贅をこらした建築様式がしのばれる。


南側の雨戸は何と26枚あるが開ければ、
全て左側のと袋に納まってしまう。


見事な大九の仕事である。

大広間の廊下に立つ



大玄関を上がると正面に床の間があり、
左側の庭園が見渡せる大広間である。




大玄関を上がると、頭上に、畳2枚もあろうかと
思われる大額があり、「静松軒」と大書きしてある。

大広間の床の間

日付は明治24年とあり、これを書いたのは
当時九州太宰府天満宮の宮司であり、
日本有数の書家であった「浩潮陳人」である。


「静松軒」とは、座敷の名称であるが、かつて
大玄関の左手に枝ぶりも見事な老松の大木があり、
これを眺めてこの名を付けたと言われている。

「静松軒」




とにかく、庭園も素晴らしいが
反対側は広大な中庭なのでこの大座敷は
圧倒的な開放感がある。






大座敷



次に茶の間を見ていこう。



内玄関の寄り付きを含めて
三間続きの茶の間がある。



開け放せば畳27枚。

茶の間

南側の廊下には遠く会津三島のあたりから
筏で運ばれて来た16間半(30m)の
見事な杉の丸桁がある。


ここは、当主が来客と接した場所であるが
それにふさわしく、落ち着いた気品が感じられる。



尚、当主の家族はいつもは板敷の「中の間」で
食事をとっていたが、12月31日の夜の晩と
正月だけは、この茶の間で食事をとる
習わしがあった。

画像の説明




台所と囲炉裏場所へまわり、
見上げれば煤で真黒い大きな梁が重なり
柱も床も黒光りして、雪国特有の豪壮堅牢な
構造である。


一隅にはる六尺四方の炉がきられてあり
16人が一度に腰がかけられる。


雪国越後の長い冬、使用人達はここで
薪を燃やし、暖をとっていたのである。

画像の説明

そして、食事の支度をする女中達が
忙しく立ち働いていたのである。


この台所からは、人々の日々の暮らしが偲ばれる。


台所の広さ70坪(231m2)。
西側の炊事場には、かつてレンガづくりの大きな
かまどがあり、毎朝一俵(60kg)の
米がたかれていたという。


魚屋は亀田より通って来て、酒は酒屋が一斗樽を
何本も運んで来ていたという。

とき



また、正月にはもちを百臼、小正月にも
やはり百臼ついたという。


さぞや忙しくにぎやかで、あったことだろう。


今は静まり返ったこの台所に立つと
遠く、女中や使用人達のざわめきが
聞こえて来るようである。




では、どのようにして豪商へと歩んだのだろうか?

正面左が蔵の長屋門

宝永6年正月、九代将軍家重の時代に、
初代文吉は20才で約一町2反の畑を分けてもらい分家した。


移り住んだ家は6畳2間と土間に2坪の台所がついた
だけのものである。


分家して間もなく往来の向かい側の紺屋の娘、「きよ」を
嫁にし、きよの実家の関係で百姓のかたわら
藍の商売も営むようになった。


あと取り息子「安二郎」も生まれ若い夫婦は
多少お金がたまると畑を買っていき、

画像の説明

百姓も一人前になったが、
それ以上に商いも繁盛するようになった。


家を建て替え倉をつくり,徐々に豊かになってゆく。


時は移り享和元年、文吉は他界、とうに「きよ」も
亡くなっている。安二郎は35才で2代文吉の名を継ぎ


商売は藍のほかに雑穀を商い、更に質屋や倉庫業と
飛躍的に大きくなって行く。百姓をやめ


「いはの家」と屋号を名づけた。

生活道具類



そして2度目の妻の先夫の「為次郎」を養子にもらい
やがて父子で知行所一番の財力のある豪商としての道を
歩みはじめたのである。

小浜のご用達となり、天保8年には名字帯刀を
許され、2代文吉からは
「伊藤文吉」の名を名のるようになった。


また邸も100坪を越す沢海一の住居を
構えている。

展示品



伊藤家の土台を築きあげたとも言える3代文吉(幼名為五郎、)も
のあと、家督を継いだのは5代文吉である。


4代文吉を継ぐはずだった「左六」が44歳の若さで
亡くなったため、3代文吉の孫に当たる「要之介」が
16歳で5代文吉を名のったのである。

やがて混乱の江戸時代末期を経て、時代は
明治へと変っていく。

5代文吉は嫁「キイ」との間に、あと取り息子の
謙次郎をはじめ子宝にも恵まれた。

画像の説明

しかし、幕藩体制の崩壊から天朝の
御一新への移り変わりを見届けてきた彼は


「この乱世に努力と才覚を持って所有地を広げてみたい」と、
ひそかに決意するのである。


明治7~8年頃に伊藤家はすでに29ヶ村に
122町歩余を所有しており、算盤と勤勉によって、


豪商の城を築こうとする5代文吉は、明治10年を過ぎると、
まず、屋敷を確保することを考えた。

矢立(当時の携帯筆記道具)



邸には土地5千数百坪が用意され、いよいよ工事が
始まるのは15年からである。


最初にできたのはおそらく作業場であろう。


人が八方に散り、材木と御影石の買い付けのために
会津・山形・遠くは秋田まで出かけて行った。


買い付けた資材は「阿賀野川」を「いかだ」と「船」とで
運ばれてくる。


また新潟からも信濃川から小阿賀野川と
おびただしい材料が運ばれてくる。

画像の説明

現在、茶の間の廊下の先にある一番長い16間半「30m」の
一本通しの杉の丸桁は、雪しろで水かさの増した時に、
会津から運ばれたものである。


なにしろ今のように機械力のない時代の話である。


木材を運ぶにも基礎をつくるにも大変であったに違いない。
工事が完了したのは実に8年後の明治22年の終わりであった。



新築の工程に目鼻がついた明治23年、
5代文吉はせがれの嫁とりに力を注いだ。


将来の伊藤家にふさわしい互格の家柄の娘を
さがさなければならない。

煙草道具と矢立


新潟県全域にわたって56もの家の調査にあたった。
しかし明治24年12月29日、この志なかばに
5代文吉は逝去する。


明治25年1月8日、せがれ謙次郎は家督を相続し
翌9日には文吉の名を襲名し6代文吉となった。


そして、この年の5月23日大安吉日いよいよ
嫁をむかえるのである。


この嫁、名は真砂といい、実家は中越きっての
旧家であり、名門である村山家。

画像の説明



庭は現在でも有名な貞観園である。
しかも真砂自体、柏崎地方の盆踊り句の
はやしに歌われるほどの才媛であった。


披露宴は三日三晩、盛大に続けられた。


それから後の明治28年、
若夫婦は2名のお供を従え、のびのびになっていた
新婚旅行へ出掛ける。


京都を拠点としながら、奈良、伊勢へと遊ぶ。
実に優雅な旅は70日間も続いた。

庭園



また、6代文吉の時代には次々と土地を取得し、
明治25年には636、8町歩、明治34年には
1063町歩となる。


また、新発田の清水谷下屋敷も、明治25年には
すでに伊藤家のものとなっている。



時は移り明治36年7月6日、二男淳夫は8歳にして7代文吉
の名を継いだ。


6代文吉がわずか33歳の若さで急逝したためである。

画像の説明

しかし伊藤家はゆるぐ事なく大地主の道を歩み、
明治41年には1384、7町歩の大地主となっている。



明治から大正へ移る頃、所有地が広範にわたって
くるにしたがって、3人であった番頭は5~6人となり、
やがて7~8人となる。


奥には、家族直系の奥女中、子供達一人一人についている乳母
その他の女中、作男、門番などの使用人たちを入れると
総勢60人くらいが、この家にいたことになる。


やがて大正7年、慶大を卒業した文吉は、
アメリカに留学。

画像の説明



ペンシルバニア大学に学び、大正14年に
ようやく帰国した。


そして、この年、京橋、米沢家の娘「竹子」と結婚。
八代文吉となる吉彦を誕生した。


県下大一等の大地主としての日々が続いたが
昭和6年、満州事変の勃発、続いて太平洋戦争へと
次第に時は移っていく。


昭和20年8月終戦。
この1ヶ月後、7代文吉はこの館を博物館にする
決意をかためた。


7代文吉とライト中尉

昭和20年終戦直後、伊藤邸土蔵内に旧日本軍の
隠し物資があるとの情報でその摘発に進駐軍の
ライト中尉が来た。


7代文吉と話を交わすうちに、偶然にも文吉が
ペンシルバニア大学の先輩である事が分かった。


それ以後、ライト中尉は、この北方文化博物館に
絶大な支援をあたえてくれた。草分けの頃の
すばらしい後援者であった。


この巨大な家屋敷は進駐軍の計画によると
集団住宅となる予定であったが、

画像の説明

学校教育の改革を主たる任務とし
文化に深い理解をもっていたライト中尉は


この遺構を価値ある文化遺産と位置づけ、
マッカーサー元師に進言し
戦後に生まれた私立博物館の第一号となる。


かくして、集団住宅になろうとしていた
この伊藤家の家屋敷はライト中尉と7代文吉の


二人の劇的な出会いによって博物館として
歴代の遺構を保存できることとなったのである。



この後、昭和28年に作庭に取り掛かり、昭和33年完成。
徐々に博物館としての完成度を高めていった。

伊藤邸長屋門

現在、伊藤家は8代目。


宝永の年代から平成に至るまでに200年を越す歴史を
持つ伊藤家の遺構に、全国から多数の人々が
今日も訪れている。




八代目文吉




八代 伊藤文吉
現館長・理事長(昭和2年(1927年)~














額
画像の説明









他国の石のお金
縄文土器









画像の説明
画像の説明









大盃・八升入れ
一斗2升入・大徳利









大香炉
器

















母屋前












臼の飛び石

母屋を出て広大な長屋門の前には
大きな臼の飛び石などが配置され、歩くと気持ち良い。


木々も綺麗に手入れされている。




そして広大な屋敷の西北には、白壁と
張り瓦の美しい土蔵造りの建物がある。

集古館

これはもと飯米蔵であり、多い時は2000表もの
米俵が積まれていたという。


蔵に入って一番最初に
八代目 伊藤文吉の胸像が威圧してくる。


この博物館の館長でもある。


伊藤家の200年の歴史を知れば
その凄さが理解出来るので、不思議には感じない。


銅像は彫刻家の細野稔人(としひと)1932年
新潟の新発田(しばた)生まれにより
作製されたものである。

古代エジプトの物達

この蔵には一族のコレクションが
多数展示されているが、その種類は
エジプトものから中国物が多数見られる。


古代ガラスは約5000年前のもので
土中変化による発色の美しさがあり
ローマンガラスと呼ばれる。


このローマンガラスほど
美しく輝くガラスは無い。

装身具類

その横にある、王妃の顔のものは
一瞬ツタンカーメンかと思われるほど、
異色に感じる。


そのほか装身具類やエジプトガラスの涙壺など
小さくても時代を感じさせる。


中国のものでは赤絵皿や古い唐三彩などが
置かれている。


その他、日本の荒木十畝(あらきじっぽ)による
滝の水墨画がシンプルで面白く、力強い。


タイトルは「瀑布」という。

滝の水墨画



荒木は長崎県出身、明治5年生まれ、
昭和19年没。


展示品はこの他、沢山あるが観きれないので
この敷地に移設した古民家を探して見ることに。


敷地が広大なので迷子になりそうになる。


途中に茶房「井戸小屋」ある。


在りし日の井戸小屋は、今はそのまま
茶房「井戸小屋」となり、訪れる人の
憩いの場となっている。

水道場

入り口前に水道場が有り、
石鹸置きが印象的だ。


せっけんが3つ置いてあり、
竹の上、瓦の上、レンガの上と置いてある。


木で造られた格子の囲いも
実に情緒がある。



ここで手を洗い、お店へと入る。
我々もここで休憩し、
甘味を少々楽しんだ。

石鹸置き



暑いので氷を食べているお客もいるし、
蕎麦を食べてる人もいた。


茶房を出たあとは、
おみやげ処「三楽」があり
そこにも寄ってみた。



部落の方への少しの土産を買い、
ほとんどは目で楽しむ。

三楽は右側



ここの売店の従業員のお姉さんは
とても親切で優しかった。


この三楽のある長屋は、かつて「作事」と
呼ばれていた建物であり、邸内の土木工事が
始まった明治15年の建設である。


この邸を作るとき、完成するまで約8年間
ここで大勢の大工達が木材を刻んでいたという。


長屋・かつての作事

三楽を出たところの正面に藤棚がある。
樹齢100年以上はあるであろう太い幹。


5月頃には、うす紫の花が満開となっり、
陽春のやわらかな光の中、この藤棚の下で
しばし歩みを止め、憩うのもたのしいものであろう。


この藤棚の下には、ここを訪れた角川春樹の
小さい句碑がある。


「藤の花 雨の匂ひの客迎ふ」

藤棚

また、邸内には約300本余のつつじがあり
6月中旬ともなれば満開となり、訪れる人々の
目を楽しませる。


新緑の目にしみるような木々の青葉、そして
色とりどりに咲き誇るつつじ。


一幅の絵を見るような調和の取れた
庭園美がここにあるであろう。

みそ蔵

この長屋の一部、三楽の隣りは「地酒館」で
横の棟が「みそ蔵」である。


ここはかつて十数本の味噌桶が並んでいたという。


薄暗い土間を改造、又は増築し、今は
食休み(じきやすみ)「みそ蔵」として
生まれ変わっている。


この地方に昔から伝えられている田舎料理が
食べられる、300人程収容可能な食堂である。

食休み「みそ蔵」

最初、味噌蔵と思い入って行った。


左手の大きな桶が三つあったが


奥を覗いて見れば広い食堂で
団体客が食事の最中であった。


表を更に歩いていくと、古民家がある。
新潟県の古い家を2軒移設したようで
この前側は蓮畑になっている。


まず入ったのは柏崎市大沢集落から
移設復元したもの。
江戸初期に建立したもので400年も前の家。

400年前の古民家

約20坪の土間生活時代を偲ぶ
貴重な民家といえる。


入るの左側に馬屋、右が厠(かわや)
土間があり、奥が広い板の間。
当然、囲炉裏があり、神棚もある。


上は太い張りが、重なりながら走り、
差し鴨居に戸板が5枚で二間半ある。
今の柏崎の家と良く似ている。

入ったところ



古民家でも典型的な田舎屋である。
土間の突き当たりに無双窓が見える。


農村の家で、天井はないので
上が広々していて気持ち良い。


家の造りはそれなりだが
まわりの住環境が緑なのが素晴らしいところ。


以前、柏崎にある古民家に入ったことがあるが
やはり左手に馬屋があった。

広間



右に炊事場があったが生活空間は異常に狭かった。

その家に比べるとかなり大きな家のようで
広々としている。
大黒柱も7寸~8寸ほどある。


実際、こんなところで一日
ゆっくりゴロ寝でもしたいくらいで
この静寂さが訪れる人を癒してくれる。

400年前の家

正面から見ると曲がり屋のようであるが
今時の新潟の家々とそっくりなので


この家は新潟のルーツになっているのが
容易に想像出来るのである。


新潟の古民家はほとんど、土間に藁を敷き
生活していたようだが、理由があった。


裏日本は表日本に比べ、半年間、雪に埋もれ
生産活動がしにくい。

画像の説明

そのため、各藩は「板の間禁令」の制約をつくり
物・心の両面に厳しい節約を命じた。


一軒に一間しか作れなかった板の間は
その家長の居間とし、その他は土間に
藁を敷き生活した。


ここはその時代を偲ぶ貴重な場所である。

前の蓮畑



家の前は以前は田んぼだったようだが
今は蓮畑に変わっている。


本の少し前なら綺麗な蓮の華が
見られたかも知れない。

その蓮畑の向こう側にも建物があり、
意匠をこらした茶室で、「常磐荘」という。

常磐荘



この敷地には5つもの茶室がある。
そのほとんどは7代文吉より庭づくりを依頼された
名庭師、「田中泰阿弥」の手によるものである。



彼は庭園をつくるにあたって
植木、池、築山、石、つくばい、灯篭などとともに
茶室を点在させ、より格調高いみごとな庭を
完成させたのである。


田牛・たのもう!

ここの敷地はあまりにも広大の為
紹介出来ないところが多々あったが


「豪農の館」である
「北方文化博物館」をそろそろ、おいとまして
我々は「村上市」へと向かいました。








瀬波温泉へ(村上市)



早速、ナビに旅館の電話番号をセットし
走り出しました。

村上へ向かいます

地図を広げて見たら何か反対方向へ進んでいる。
丁度3角形の右へ行けば近いのに
わざわざ2点を大回りしているよだ。


でもここはバイパスなので
仕方無く遠まわりしていきます。


恐らく時間的には早いのでしょう。


自分のいる場所を把握していないと
こうなってしまうんですよ


「悪い見本を、またやってもうた!」


5分ほどで日本海東北自動車道の
「新潟亀田IC」に乗った。


目的地まではこれから50分ほどで
村上へ到着予定!

石船神社

でも事故があり、通行止めで「中条IC」で
降ろされてしまった。


思っていたより村上は遠い。
あとは田舎道をのんびり走ります。


やがて荒川を渡り、「県民いこいの森」を
右手に見て海沿いを行けば「瀬波温泉」です。


旅館は全部海沿いにあり、今日泊まる予定の
「旅館大清」(だいせい)は6~7軒目ぐらいにあり
うす緑色の建物だった。

道路標識

時計を見たら3時丁度で
チェックインには良い時間。


中へ入っていくと、5階の見晴らしの良い部屋へ
案内された。


と、いっても海しか見えない。


部屋の下を覗くと波がほとんどない海岸で
釣りをしている人がチラホラ見える。


この辺りの海は大変綺麗なので
「魚・イカ・タコ」などが美味しいらしい。

画像の説明

それというのも日本一の「三面川」が
そもそも綺麗で、上流はブナの
原生林があるという。


それに荒川も、綺麗さではダントツなので
海が綺麗というのも説得力がある。


地理的にも山形県との県境に近い。


2たりともお昼は野菜しか食べてないので
この時間で腹ペコ状態。

部屋のすぐ近くが海

テーブルのお菓子は食べたものの、
効き目無し。


仲居さんの
「夕食は7時になりま~す」の声で
すでに気力が失せてしまう。

「ガックン!」


既に放心状態なので出掛けられず
いつの間にか寝てしまった。


夕方5時ごろ目が覚めたので
温泉へ入りにいった。

部屋



広くて誰もいなかったので
ゆっくり浸かって大きな海を見た。


まもなく夕暮れで夕日が少し
オレンジ色になっている。

温泉を出たあと、テレビなど見ながら
何とか7時まで何も口に入れないで過ごした。


7時前になると中居さんが2たりの
食事を部屋に運んでくれたので
生ビールを一つ注文した。


ゴクゴク!
「うまいの~」

一句いくヨ!
「波の音、喉に染み入るナマビール」

なしてビールは、こうもウマイんじゃ~

海側


やっと食事にありつけて
「幸せだの~」


こんなに美味しく食べられるのは
「神サマからのプレゼント」だの~


わざとお腹をすくように
計らってくれたんだね。


お蔭で何も残さず頂いた。


それにしても、こんなに美味しく
いただけたのは久しぶり。

夕食

仕事でも良くこんな料理を
よく食べたけど、今日の料理は
格別美味しかった。


「ごっつおさんです」




翌日の朝食は8時と言われ、
暇つぶしに困ります。


大抵は朝6時頃には眼が覚めてしまうので
8時の朝食は遅いような気がするが
観光は9時以降なので、良いのであろう。


8時ピッタリに2階の部屋へ行くと、
60畳はある大広間だった。

画像の説明

「懐かしいの~」
まるで、仕事の時のようだった。


部屋番号が書かれた所へと座ります。


それぞれお膳が置かれ、座ると
仲居さんが、ごはんと味噌汁を持ってきてくれる。


お客さんがこんなにいたとは思いませんでしたが
数えてみると、12グループ程、座っていて
約40人程はいたかも知れない。


夫婦の他、女性4人組、年配のおじさん20人グループ
男3人組など色々いるが、
それぞれ旅行を楽しんでいる様子。


おじさんと東南アジア系若い女性の
カップルもいる。

皆、羨望の目で見てる。

いや、僕だけかもしれないが・・


足が悪いと思われる女性が椅子に座って
食事しているが、テーブルが無いのは
とてもかわいそうで、隣りの人が
おかずを取ってあげていた。


旅館の対応が・・
「何とかならんのかの~」


仲居さんは4人いて、「ごはん」や「味噌汁」の「おかわり」に
歩き廻っている。


おかずは、小さなイカの刺身は珍しい。

「イカは柔らかくておいしいの~」


それと鮭、生たまご、納豆、のり、梅干や
お新香、蕗みそ、などが並んでいた。


珍しく、二人とも「ごはん」をおかわりした。

画像の説明



味噌汁の具は、味噌汁に海苔のようなものを
仲居さんがハサミで切って入れるだけで
「簡単、シンプル、美味い」


手間がかからず、GOODアイデア。
朝は手抜きでもいいか・・


食事が終わり、部屋に戻って海を見ると
釣りをしている人が大勢いるのが見える。


今日は日曜日なので当たり前かも。


天気予報は雨だったのに
天気はどんどんと良くなり、
今は青空が広がっている。

釣り人

9時にはチェックアウトで受け付けへ行き
今日のみどころを一応聞いてから出掛けます。





城下町村上へ



イザ!城下町村上市内へ!出発進行!


まずはここから一番近いところにある
イヨボヤ会館へ。


「いよぼや」と言うと舌を噛みそうになったが、
「イヨボヤ」とは鮭のことらしい。


このあたりでは、鮭と言わずにイヨボヤというが
僕達言いにくくて「イヤンボヤ」


「かんにんしてくんりょ」





イヨボヤ会館

イヨボヤ会館あたり



ナビに入れ走り出すと
「三面川」(みおもてがわ)の近くを走り
アッという間に到着!


未だ鮭のシーズンには早すぎるので
駐車場はほとんどガランド状態。

バスから降りて来た団体がいたが
「サーモンセンター」と書かれた隣りの
おみやげ屋さんへ入っていったけど?

入ってすぐの正面

わけがワカリマセン。

間違って入った可能性もありますが・・


会館は現在外癖の工事中で大きな
鮭のオブジェ(5mはある)も撮れずに残念無念!


中へ入ると、旅館でもらって来た割引圏で100円ずつ
割引してくれた。


それにこれから行く予定の3箇所も
割引になるとかで良かった。

鮭の吊るし

まずは丸い灯りのある所を歩いて行くと
鮭が釣り下がっている。


更に行くと、鮭の環境映画が始まったので
見ることにした。


村上と云えば鮭、鮭と言えば村上!
小京都とも言われる城下町!
そしてお茶、お酒が有名らしい。



お茶は川根茶とよく似て澄んだ色の
爽やかな味で美味しい。

鮭物語?

以外にも川根茶より美味しい気がする。
川根茶は最近手抜きしているかも知れない・・


川根より朝晩の寒暖の差が
激しいのだろう。


短い映画は、鮭の一生と
村上の自然との関係、村上独特の文化
などが理解出来るように作られている。

チョウザメ

鮭は生まれた川から海へ出て、北の海を旅して
約4年後に、再び生まれた川に帰ってくる。

そして産卵し、その一生を終えるのです。


なぜ帰ってこられるかは、まだ詳しく
分かっていませんが、磁気を感じ取るとか


川の匂いを覚えていて、帰るなど
様々な説がある。


三面川にのぼる鮭も、北の海からふるさとの
川をめざし、長い旅をして
産卵の為に帰ってくるのです。

画像の説明



村上では、江戸時代に「種川(たねがわ)の制」により
世界初の自然孵化増殖に成功しました。


また明治時代には人工孵化増殖を始め、
現在では、毎年約800万匹もの
「鮭の稚魚」を放流している。


鮭を大切に育て、再び四年後に
帰って来てくれることを願って放流するのです。

映画では、先人達が築いてきた村上のサケ文化を
紹介しています。


先程の「イヨボヤ」とは
平安時代の「和名抄」という辞書に


「魚という漢字は、日本のウヲのことだが
俗にイヲともいう」とあり、

いわしの群れ

イヲは平安時代から「魚」を意味した言葉である。


イヲはイヨともいいます。


ボヤは、村上で広く魚を表す「幼児言葉」だそうで
イヨとボヤはともに魚を表す言葉であることから


村上では魚といえば「鮭」であり、
イヨボヤと呼ばれるようになったという。



生態観察室には、いわしや、チョウザメが
飼われていた。


更に進むと、昔村上藩で功績を上げた武士
「青砥武平次」(あおとぶへいじ)の
記念コーナーがある。



今から約200年以上も前、村上藩は
鮭の産卵に適した場所を川に作ることを考え
川普請を行いました。

チョウザメ

しかし、上流の村と漁場の境界争いが起き
幕府に訴えられました。

藩では、鮭の習性や増殖方法に精通した
青砥武平次を、江戸に出向かせ幕府に説明した結果、
その主張が認められました。

その後、さらに藩では、川普請に力を入れ、
鮭の天然孵化を助け繁殖を図る「種川の法」
を作りましたが、


まだ人工孵化の技術を知らなかった当時としては、
日本はもとより、世界にも類のないことでした。


このように、鮭とのつながりが非常に深い村上では
鮭のことを愛着を込めて「イヨボヤ」(村上の方言)


と呼び、村上の自然「三面川」の恵である鮭は、
村上に欠かすことの出来ない大切なものです。

青砥武平次になりすます奥さん



青砥武平次はイヨボヤの種川を作った男。
種川(たねがわ)とは川に2本の小さな川を
養殖させる為に人工的に造った川をいいます。


世界で最初にサケの「回帰性」に着目し、
サケの自然孵化養殖「種川の制」を考案した
村上藩士 青砥武平次。


武平次の自然孵化増殖事業の成功は
当時の村上藩の財政を支えたばかりでなく、

村上藩士 青砥武平次の像




漁業をはじめ、広い分野に貢献し、
現在の村上市の発展と文化のいしずえを
築きました。


時代に先駆けたアイデアで偉業を成し遂げた
青砥武平次だった。





川の中のサケ

広く暗い通路を歩いて行くと
人感センサーが働いているらしく
左右に川中のサケの映像が浮かび上がって来る。


後ろを振り返る余裕も無く
次々と現れる水中芸術とは
この事か?



いかにも川の中という感じで
青一色での表現もすばらしい。

画像の説明

まるで自分が今、この瞬間、
川の中に招き入れられたのごとく
今は呼吸が苦しい。



現れては消え、
消えては又現れる


まるで、サケになった少年のように
サケの気持ちが伝わってくるようだ!

泳ぐサケ



あるものは激しく川を上り、

あるものは下り、辺りの様子を伺いながら
悠然と泳いでいるかのよう。


深みからやがて浅瀬に行き着き
小石を尾ひれで力強く叩く。



小石は砂と共に煙のように上に舞い上り、
その瞬間、流れに従う!

産卵中のサケ



あるものは激しく動き廻って
ようやく産卵にこぎつけた。

そして、行き着いた先は
本物の川だったのである。


種川の中



ほら!よく見てみれば
ホントの川でござる。


魚が泳いでいるけど
今はシーズンでは無く、サケではないヨ!


丁度、川を横から眺めている状態で
山の景色が半分と水中が半分見えてる状態。


つまり、自然の川の中をガラス越しに覗いているので
非常に珍しい。

川の中




川は三面川の種川であり
川を遡上するサケの群れを直接ガラス越しに
観察出来る。


日本一を誇るこの施設は全長50メートル、
幅8メートルの大地下室。

画像の説明

まさに勇壮なサケが群游する一大パノラマが
展開されるのである。



運が良ければ、神秘的な産卵シーンを
観られるかも知れません。



恐らく11月の中旬から12月にかけて
サケが遡上すると思われる。


もし、可能ならその頃に、再度
訪ねてみたいものである。

大地下室




いま来た通路を戻り、エレベーターで
2階へ上がると、村上のサケの文化を
詳しく知ることが出来る。


村上の自然や郷土と人々のくらし、
三面川に生息する魚たちなどを
観られる。


歴史を知ることは、
未来を知ることになるので
とても勉強になります。

卵の分別作業に使います



古くからサケをとるいろいろな漁法が工夫され
網、鈎、やす、落とし、ど、などの漁具が
用いられていました。


これらの漁具を使用した漁法は、三面川への
回帰と繁殖というサケの生態や習性を利用して
考案された伝統的な漁法で、主に、遡上中の

み

サケを対象とした漁法と、産卵場のサケを
対象とした漁法の2つにわけられる。


かつて、三面川では沢山のサケがとれていた。
明治17年には73万尾という驚異的実績が
記録されています。


サケが大群でのぼってくると、小さな漁具では
能率が良くない為、大型の留め地引網などが
使われました。

さけ卵入れ



しかし、三面川のサケ漁には周期的な好、不漁の波があり
かつ、漁獲高も年々現象の一途をたどり、伝統的な
漁法もひとつ、ふたつと時代とともに消えていきました。


現在も行われているのは、居繰り網漁、刺し網漁、
てんから漁、鈎漁、柵漁です。


てんから漁は3本の鈎をイカリのように組み合わせ
その中心部に鉛を三角すい状に流し込んで成形し、
鉛の重みで流れに耐えられるように作った鈎が
”てんから”で、


太い釣り竿にナイロン糸を使い、糸の先には
その”てんから”を結びつけ、サケの
産卵場所に投げ入れて待ちます。

鈎漁図



産卵床付近に集まるサケが糸にふれると
素早く合わせ、鈎でサケをひっかけてとるという
原始的な漁法です。


熟練した漁師になると、オスメスのアタリの違いが
分かるといいます。



サケは危険を感じると、水中の杭や木の根などに
頭を突っ込んでひそむ習性があります。


この習性を利用して考案されたのが”サケど”です。
”ど”は長さ1、5メートル、先端の口径が約80cm。

鈎など



材料はヤナギの枝や竹を用い、入り口の方を広くし、
後ろの部分をしだいにすぼめて、編んでいきます。


入り口から約50cmのところに、はいると
出られないように「かえし」という仕掛けを
とりつけてあります。



このようにしてサケをとる漁法が”ど漁”です。






番小屋

三面川では、昔からサケが安心して産卵できる
「種川」たねがわ をもうけ、その保護に力を
入れてきました。





画像の説明

サケの漁期中、種川での密猟や設備の破壊を
監視する為、建てられた小屋を番小屋といいます。


大正時代には番小屋が十数箇所もあったと言われて
います。


この番小屋の構造は、丸太で骨を組、外側を
藁で葺いた簡単なもので、内部は畳2~3畳敷きの
広さでした。

番小屋と男ひとり



各、番小屋には2名の番人が昼夜詰めきりで
番をしました。




サケの恩恵をこうむる村上の歴史と
人々のサケとの生活を見てきましたが、


次の目的地の歴史文化館を目指し、

サケのポスター

なかなか見ごたえのある「イヨボヤ会館」を
後にしました。



出口を出て駐車場をめざすと、テントが張られていて
水槽を設置してあり、金魚すくいか?


周りに人だかりができているので
行ってみると、釣り堀でした。

インスタント釣り堀

お母さんが子供のエサをつけてるところです。
水槽の魚は何かわかりません。


「あゆ」ではないなら、「いわし」かも。


周りのおじさん達も興味がありそうで
えさが入るのをジット見つめます。


面白い光景でしたが先を急ぎます。

魚たち



さあ!車は城下町村上の町屋ゾーンへと向かいます。





まずは村上の歴史と文化を伝える
三の丸スポットに到着。


村上市内、三の丸地域

空き地らしき所へ車を入れ
歴史文化館、おしゃぎり会館、若林住宅と
まとめて行きます。


この辺りは村上駅の東に位置している
城あと、武家町、町人町、寺町が残る古い城下町です。


町人町には今も伝統的な家屋が住宅や商店として
点在していて実に情緒を感じさせてくれます。


村上城跡、臥牛山

町家を尋ねるのは楽しみだが、今は取り敢えず
割引スポットへ潜入します。


駐車場から、後ろを振り返れば高さ150mほどの
村上城跡、「臥牛山」が小高く迫る。


山が高くないので、広々して
実に情緒がある。





村上歴史文化館

村上歴史文化館

まず入ったところは「村上歴史文化館」
というところで建物は昔の医院の


建物の外観であるが中は全く違い、
今風の造りで1階が吹き抜けとなっている。


外観は村上市掘片にあった明治時代の
旧藤井医院を参考として
設計されているという。


城下町の歴史的資源を積極的に、保護、
活用する動きが活発となっていった。


その拠点となる施設の建設を求める声が大きくなり
平成15年、9月にこの歴史文化館が会館した。

村上歴史文化館の内部

ここには地域の文化財の保存展示・
普及啓発活動だけでなく、


街づくりや観光などの拠点施設として
活用されている。


内部には約一万8千点を数える岩船地方の
歴史民俗資料で、故斎藤誠一氏により
収集されたものが寄贈された。


当地方の衣・食・住の生活道具の他
諸織、漁漁、農耕などに関する資料が展示されており
随時入れ替えながら展示されるという。

土人形

入り口に入ると正面に、土人形がひな壇に並べられている。
どれも色落ちしている古いものだが、今の物と比べれば
形や表情に温かみが感じられる。

その横に受け付けが有り、受け付けのお姉さんが
簡単に説明してくれる。


新潟ではどこでも感じの良いお姉さんばかりで嬉しいネ。

ドンサ漁労衣



この作業着をここでは漁労衣であり、「ドンサ」という。
ドンサは「もんぺ柄」のような布で作られている。


文様がほとんど無く、丈夫に作られている漁労衣が
「コンギン」とかかれていた。




奥へ歩いて行くと昔の作業着と、アイヌの衣装が幾つか
展示してある。

コンギン漁労衣



村上は昔からアイヌと関係していたのは容易に分かる。


アイヌの漁労衣は「アツシ」と説明されていた。
例のアイヌ特徴ある文様なので一目瞭然です。


イヨボヤ・・・一見アイヌ語のような感じだけど違うらしい。

アイヌ作業衣

「イヨボヤ」は「魚の中の魚」つまり「王者の魚」という意味
鮭はアイヌ語で「 カムイチェプ」といい、
それは「神の食べ物」という意味なのだという。


でもアイヌとの交易があったのは確かなようだ。
瀬波港・岩船港を中心に発展した海運資料も
展示するという。


そのほかに何故かベンジャミン・フランクリンや
フローレンス・ナイチンゲールの肖像画などもある。

ベンジャミン・フランクリン


ベンジャミン・フランクリンはたしか
アメリカの政治家、物理学者、気象学者、印刷業で


成功を収めたあと、政界に進出しアメリカの独立に
多大な貢献をした。


凧を使った実験で雷が電気であることを
明らかにしたことでも知られている。


フローレンス・ナイチンゲール

ナイチンゲールはイギリスの看護師、統計学者、
近代看護教育の母といわれる。




因みに国内では、最澄と空海(弘法大師)の
画が展示されている。


両者とも平安時代の僧で、「最澄」は日本天台宗の
開祖であり、「空海」は真言宗の開祖である。

最澄と弘法大師空海



画の上の人物が「最澄」で、
画の下の人物が「弘法大師空海」である。



他のも聖徳太子、柿本人麻呂、桓武天皇など
のものがある。


ま~ともかく、僕達は咽が乾いて
コーヒーが飲みたくなったので
お姉さんにコーヒーを注文した。

アイヌの漁労衣アツシ

美味しいコーヒーを飲みながら
話し込む。


コーヒーは200円と安い。それに、くじ引きを
やってみることに。


くじ引きは1回やはり200円。


外れ無しで、当りが出ると
サケの酒ズケ(980円相当)が当たるが


まーちゃんは、ハズレの
「エビ」が欲しかったようだ。


エビはストローで作られていて
初めて見たもので、上手く作られていた。

アイヌの漁労衣アツシ



くじは発泡スチロールのお椀を
ふたつ合わせたようになっていて
中に景品が入っている。


引く前に良く見たら
隙間からエビが見えていたけど
ここは欲が出て?目をつむり


「ささ、いきますよ~」


当てずっぽに1個取り出した。

受け付け

お姉さんがセロテープをハサミで切ったら
エビが2匹出てきた。


エビは赤色と白色の2匹。


「紅白の海老とは、めでたいの~」


要するに「ハズレ」でした!


ずるすれば、当りは重いはずなので
すぐ分かるが、根が正直な僕は


清く、正しく、美しく「クジ」を
引いたのでした。

ストロー人工えび三匹

それを、お姉さんが分かったらしく?
黄色のエビを一匹追加してくれて
3匹にしてくれた。


「やさしいニャン!」


僕たちはお姉さんにお礼を言いつつ
村上歴史文化館を後にしました。




若林住宅

入り口の門構え

そして、道の隣りにある「国指定、重要文化材
若林住宅」へ歩いて行きます。


入り口には青い「のぼり」が立ち、
茅屋根の門構えの入り口へ入って行きます。


入るとおじさんが一人いて、
入場チケットを見せました。


この家は敷地は広いけど、家そのものは、
こじんまりしていて住むには丁度良さそうで
非常に落ち着きます。

若林住宅・武家屋敷



農家屋ではなく、いかにも武士の家、
と、いった趣であり、部屋の造りが綺麗に
まとまっている。


今から二百十数年前から明治期まで、
村上藩士若林家とその子孫の生活の
舞台であった建物である。

東側

若林家が、内藤家に召抱えられたのは
延宝2年(1674年)で


天和2年(1682年)には内藤分家の
家老職を務め、200石を給されていた。


その後、内藤本家に再任され、150石に
減ぜられたが、内藤家中の中級上位の藩士として


大目付、長柄奉行、普請奉行、町奉行、三条奉行などの
ぶぎょう要職に就いている。

画像の説明



天明7年(1787年)の「越後村上分限帳」では
筆頭家老から12番目、「者頭」ものがしらの項に



百五拾石        若林七太夫
 
金三両弐分二人扶    小頭 野崎文吉

金参拾七両参拾四人 内弐両弐分取六人  足軽十七人


座敷

と、あることから、現在地の
若林家住宅に生活するようになった頃には


150石者頭役で、18人の足軽を指揮していたことが
知られる。



若林住宅は、「部屋わりが細かく土間がせまいなど
間取りにには侍屋敷らしい特色が「あらわれており、


一部に改造がみられるが、この種の建物の
乏しい東日本における中級武家屋敷の遺構としての
価値が認められる 」として昭和52年に国の

鶴といわれる松



重要文化財を受けた。


建物は東西に棟を持つ居屋部と、南北に棟をもつ
座敷部からなるL字の曲屋で、屋根は寄棟造り、
茅葺きである。


建築年代は明らかではないが、
およそ1800年前後ではないかと推定される。

亀といわれる植木






中にはいると、狭い土間の右側には
「かまど」が。

さらに進むと、


囲炉裏があり、炭ではあるが火が入り
鍋で丸いものを煮ていた。


どうやら「こんにゃく玉」のようである。


30個ほどの丸く白い「こんにゃく」が
グツグツとざわめいている。

鍋にはこんにゃく玉が・・



チョット休むつもりで、座ると、管理のおじさんが来て
「100円寄付してくれれば、3つあげますヨ」と
おっしゃる。


試しに「4つでもいいですか?」と聞いてみたら、


おじさんは、
「あ~いいとも!いいとも、4つでも、五つでもイイヨ」と
おっしゃってくれたので、

座敷



100円を寄付BOXへ投入し
ひとり、2コづついただくことにした。


木のオタマでこんにゃく玉を掬い、白い入れ物に4つ入れた。


二人で一人2コずつ頂いた。
いただくと「なかなかいい味だしてるヨ!」


「ウマイヨ・おじさん!」

「いいダシ出てるでしょ?」

「サスガ~、料理人だね~」

こたつの間



おじさんは100円いれてくれたのが嬉しかったようで
部屋の中を色々説明してくださった。


昔は普通の人が入る玄関はこっちで
偉いお侍はあっちの玄関(式台玄関)で
入ったと説明してくれた。

おじさんは村上城あとの、近くの敷地に
住んでるという。

画像の説明



チョット前に、自分の家に鹿がきて
襲われたことがあったという。


その時はナタを持ち、戦い、勝ったとおっしゃる。


とても怖かったそうだが、


「動物は上からナタを振っても、必ず、避けてしまうので
そういう時は必ず横に振らなあアカンヨ~」


「ン~ン・なるほど~」スゴイよ!おじさん!

厠

「それで・・
鹿どうなったん?」


「ゴ~ンと、ナタが鹿に命中したんだよ」

「それから?」

「美味かったよ~
最高だね~」


「お~それは良かったね~」

swfu/d/IMG_5179.jpg

いつの間にやら住宅の事は何処かえ消え、


経済から経営の話、さらに仕事の話から
サケのさばき方まで教えていただくことになってしもた。

おじさんは若い!
70とか言っていたけど
腕の筋肉も凄かったヨ。

多分、ボランティアでやってると思うけど
おじさんは良く働く。

いつまでも元気に活躍してほしい。

厠・トイレ棟



おじさんありがとう!


時計は既に12時30分を過ぎていたので
おじさんに、お礼を言って次の、隣りにある
「おしゃぎり会館」へと急いだのでした。






おしゃぎり会館

もうこうなったら、このまま
「おしゃぎり会館」へと突入するっきゃないべ。


ここ見たら、はようお昼にするべ。
おしゃぎりって何だべね?


入ってみると、

おしゃぎり会館

「当館では常時3台のおしゃぎりを
展示しております」とあるので


だし(山車)だと分かった。
又、おしゃぎり会館は、村上市郷土資料館でもある。


村上では、お祭りに引き回される山車(だし)を
「おしゃぎり」と呼んでいるそうです。


村上大祭は、もともと村上地方の
総鎮守である「せなみ羽黒神社」のお祭りです。

画像の説明

寛永10年(1633)に村上城主、掘丹後守直より公が
城郭の拡張と城下町の整備をおこないました。


この時、村上城(臥牛山)がぎゅうさんの
西南簏にあった羽黒神社を現在地へ遷宮したお祝いと


城下町の繁栄を願い、町人達が大八車に
太鼓を載せて引き回したことが、
村上祭りの始まりだと伝えられています。


この遷宮祭が行われたのは、旧暦の6月7日で、
現在は毎年7月7日に、三基の神輿(みこし)と

山車

19台のおしゃぎり(山車)が、旧町人町を
練り歩く村上大祭として受け継がれています。


一歩、中へ入ると、人の高さ程ある
おしゃぎりの車輪の大きさと、きめ細やかに
造られた山車の迫力が見る人を圧倒します。。


山車の最上部には、朱鷺(トキ)の上に
またがる子供のお人形が、新潟県を象徴しています。

大きなトキのまたがる子供の男女

他にも鶏などもあります。
身近な鳥がお気に入りのようです。

そして子供が模型の馬に跨って
並んでいる姿もカワイイです。

祭りには子供達が、このように
馬にまたがり、練歩くのかも知れません。

馬にまたがる子供の人形

このおしゃぎりは1階と2階からも
みられるようになっています。




2階には、村上城と縁が深い
戦国時代の本庄繁長着用の兜、刀、甲冑などが
展示されています。

本庄繁長着用の兜

この兜は安土桃山の頃の作で
天正十六年十五里合戦で本庄繁長が着用し、


繁長の一命を救ったもので、
正面やや右に東禅寺右馬頭の太刀によって
つけられたキズが残る。


精巧かつ実践的に作られており、いかにも
戦国武将の姿をほうふつとさせる兜である。

2階



村上城は、その昔、戦国時代に
本庄氏によって造られ、江戸時代の



歴代藩主によって近世城郭として
「三の丸」として整備されてきたのです。


この「おしゃぎり会館」や
若松家住宅、村上歴史文化館も

太刀

武家町の要衝地「三の丸」として
整備されてきました。


村上城、三の丸の現在地に二百数十年前に
建築され、復元されたのが若林住宅です。



兜

兜や甲冑、刀の他にも
関連資料が展示されている。


このおしゃぎり会館は、
意外と大きなたてものであり、
裏に駐車場があるので利用されたい。


そして他にも三の丸記念館もあり、
明治末年の建築様式を残した木造の銀行建築で、

三の丸記念館、旧第四銀行

昭和57年に「第四銀行村上支店」を
曳き家により現在地に移築したものです。










兜など
本庄繁長









陣羽織
画像の説明









画像の説明
村上城後の分布図









太刀先
太刀元









見事な松
にわとり











村上城の歴史


臥牛山に初めて城が築かれた年代は定かではないが、
戦国時代(16世紀初頭)に、阿賀北の領主、
本庄氏によって築城されたとみられている。


当時は本庄城と呼ばれており、
木柵で防御された中世式の城郭であった。


永禄11年(1568年)、城主本庄繁長は
上杉謙信に反旗を翻す。


1年に亘り籠城し、謙信に抵抗した繁長であったが、
伊達氏、蘆名氏の斡旋を受け入れ、


嫡子顕長を人質に出し、
所領を一部没収されることで講和を受け入れた。


慶長3年(1598年)、本庄氏の会津転封にともなって、
堀秀治の家臣・村上頼勝が領主となる。


村上氏によって始められた近世城郭への改築工事は、
堀直寄の時代に完成を見た。


堀氏の時代には3重の天守が建てられ、
また城下町の構えや町割りも整備された。


慶安2年(1649年)に姫路から松平直矩が入城。
寛文年間に村上城は大規模に改修された。


天守・櫓等が新たに造り直されたが、
ほどなく寛文7年(1667年)の落雷により天守等を焼失。


以後、城主が転々と変わったこともあり、
天守が再建されることはなかった。



幕末の戊辰戦争では、内藤家の村上藩は
親幕府派と新政府派で意見が分かれて
分裂状態となり、慶応4年(1868年)、


官軍に抗しきれないとみた親幕府派の藩士が
山麓居館に火を放って庄内方面へ脱出。


庄内藩兵と合流し、新政府軍と羽越国境で交戦した。
明治3年(1870年)新たに
成立した「村上県(後に新潟県に合併)」

村上城石垣

知事となった内藤信美は、
焼け残っていた城郭の破却を政府に届出し、
受理された。


この時点ではまだ城下の諸門や石垣は
ほとんど無傷で残っていたというが、


それも明治8年までに解体・売却された。
今でも村上市内には、このときに売り払われたと


見られる石垣の一部が、
民家の庭石や塀の礎石として残っている。


村上の歴史を少しは勉強したので
早速お昼にしなくては!

村上市歴史資料館を出て時計を見たら
既に13時を廻っている。

消火栓

普通なら血糖値が落ちて
震えているはずなのに今日は何とかなってる。

旅館で頂いた朝食で、ごはんを2杯も
食べたお蔭だろう。

普通、僕がごはん2杯なんて絶対ないのに
余程、美味しかったのだろう!

良かった・ヨカッタ!




町屋


町家の通りを車で走りながら、お店を探していたら
「コーヒー」と立て看板が出ているのを見つけた。

「ヨカッター」


取り敢えず入れば、サンドイッチぐらいは
あるかも知れない。

大町文庫

食事にありつけそうで、助かります。

車を前に止め、入っていった。


メニューを見たら丼ものがある。

イクラと刺身が載っていて
おすましとお新香がついて、850円程と安い。

二人とも、それを注文したら、
直ぐに持ってきてくれた。

「美味しそうだね」

ごきげんな奥さん

「見た目も綺麗だ」

食べると、イクラの美味しさが
口いっぱいに広がっていった。

「美味しいね!」
「刺身もあるよ」

「海老も乗ってるし~」

という具合に、
イクラと刺身ごはんを美味しく頂きました。

「これで少し元気でるね~」

イクラと刺身ごはん

後ろ側には本棚に本がいっぱい詰まっているけど!

ここは文庫館になっていて
2階で本が読めるらしい。


本をみると、昔の本や村上に関係するものやら
面白い本がありそうだった。



このあと、少し町を見てみたくなった。

町家



車をお店の前に置いていいと言ってくれたので
僕たちは歩いて町家を散策してみることにしました。



「それにしても風情があるね!ここは」

「町がまとまってるヨ!」

「江戸のフンムキが残ってる!」


昔は建築士などがいなったから
風情のある家しかなかった。

町家



建築士が日本の風情を壊したのは
間違いないことだね。


江戸時代は、「大工と左官と棟梁」しか
いなかったもんね。

「何屋さんかと思ったら
クリーニング店だよ!」


「みえないね~ そんな風には!」

クリーニング店



「あそこ見てよ!」


 「鮭が吊り下がってるヨ」


「サケ屋さんか?」

「オサケ屋さんかい?」

「魚屋とちゃう?」

サケ屋

「いいフンムキしてる~」


でも、「ネコちゃん」が喜んじゃってるんじゃない







「あっちは井筒屋さんだ!」

「え~情緒あるな~」

「村上茶・珈琲・甘味・ランチ」の立て看板!

この井筒屋は「松尾芭蕉」が「奥の細道」の途中で
2泊した旅籠で、今は1日1組限定の「宿&カフェ」として
リニューアルされた。

井筒屋



「え~ね え~ね!」

「ここはホンマもんの城下町だ~」


「何処見ても美しいの~」


もう少し歩いて見たかったけど


「こんなとこかの~」


ま~ちゃんのアンヨも痛くなってきたのでね。

「あとは、車から走りながらみるとするべ」

酒屋





車でゆっくり走りながら町家の景色を楽しみます。


同じような道をぐるぐる廻ってしまったが
少しづつ道が分かってきたぞ~。


大町、小町が町家のようで
酒屋、寿司屋などがある。


取り敢えず酒屋を見つけたので
車を置こうと考えていたら
向かえが駐車場になっていた。

酒屋店内



どうやら共同駐車場のようだ。


道路に車を置いている人はいないのかも?


取り敢えず入ってみることにした。



ここでは地酒の小さいものを数本と
手ぬぐいや、食品少々を購入。


中を見せてくれるようで
「ご自由にご覧ください」と貼ってあったので

超大きな木箱



少し奥へ入って見た。


大きな箱のような入れ物は
何するものなのか?
全くナゾです。


でも紙に説明書きがあったので読んでみると
実はこれは、酒搾りの箱だった。


名を「酒ぶね」というらしい。
又は単に「ふね」という。

整然と並ぶ徳利

上に沢山の木型を4重にも乗せ、
「てこ」の原理を使い、締木で押さえ込むと
下からお酒が出て来る仕掛け。


ナゾが一つ解けました。



その奥は左が座敷で、囲炉裏があり、
更に進んで行くと昔の徳利が沢山ある。


さすがに酒屋さんで見ごたえがあった。



そして突き当たりには昔このお店で使用していたと
思われる鏡台のようなものがある。

鏡台か?



掛け金具が6つも、付いてる不思議なものです。
下には左右に雨傘を入れるのかな?


酒屋とは関係なさそうだが、
初めて見るもので、珍しかった。




酒屋を出て、今度はお茶屋を探します。
確か、2軒ほどあったはずだが・・

町家



それに何処かトイレがないものかの~。


と走っていると、まーちゃんが目ざとく
骨董屋さんを見つけたようで
騒いでいる。


車は止められるのかな?と
向かいを見れば、あら不思議!

骨董とお茶の店

広い駐車場があるではありませんか。
それに大きな広く綺麗なトイレも完備している。


「なんて親切な街なのか村上は!」


「感激至極でござる」


どうしてこんな綺麗な街なんしょ。
観光客に優しいなんて嬉しいヨ。


どんな物が売られているのか気になるね。

大町

玄関戸に「骨董やまわき」の木の看板が掛かっている。


「ま~ 入らんしょ!」


中へ入っていくと、やさしそうなおばさんがいます。
意外にも商品は少なくて、値段も高くない。


丁度良い大きさの、丈夫そうなお皿を2種類ほど購入し、
全部で5枚と、あと、まあちゃんが布の猫を
セットで購入した。

猫



お皿は明治ぐらいは時代はあるが、
デッドストック品で、とても綺麗だった。


恐らく、これから毎日使うことになるはずです。



猫はお店の奥さんが作ったものだけど
安くしてくれたので良かった。

大町の民家

奥さんの性格が出ていて、
優しい顔をして可愛いい猫だった。


他にも織物の敷物なども購入。


話していると、優しそうな旦那さんが出てきて
お金の計算をしてくれた。


店の奥さんは計算が苦手の様子で
その為に店主が計算してくれたのだろう。


互いにお礼をいいながら
お店を後にしました。

酒屋の軒先にはサケ



又、来てみたいお店で、気持ち良かった。


これでもう帰らねばなりませんが
どうしても見ておかなければいけない所があります。


そうです!
それは、清流、三面川(みおもてがわ)です。


村上の発展に多大な貢献した男、


村上藩士 青砥武平次に敬意を表し
三面川を拝んでから帰ることにしました。



清流、三面川







三面川にはこの季節、
「あゆ」の釣り人がおりました。


下に目を凝らして見ると
鮎が泳いでいるのが見えました。
川の豊かさを実感し


なごり惜しい気持ちですが
城下町村上と、三面川を後にして
帰りの帰途につきました。




今月も、ご覧頂きありがとう御座いました。




10月下旬へとつづく






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